今週のお題「人生最大の危機」
ってことで、絶対に解決策がある!とひたすら動いていたけど、
人との巡り合わせの運がよかったんだと思う。
もう、15年以上も前の話で、記憶が薄れる前に綴っておこう。
ふりだし
借金なしのわたくしのモットー
小さい自分から、親からは1円たりともお金を貸借りしてはいけない。もしも、化してしまったら、自分が無くした、自分のせい、。親兄弟にも貸借りはしてはいけない、。と事あるごとに言われて育ったものでした。
だから、40台半ば、三人の子供がいる人生において一度も
お金の貸借りはした事がありませんでした。
ニコニコ現金払い
クレジットカードはマイルを貯めるためとフリーのデザイナーだったので確定申告のための家計簿のようなもの、翌月一括払い、一択。
嫁ぎ先
少し、長くなるけれど、この前振りなしでは話がまとまらないので、書いておく。
嫁にいった先は地方都市、香川県の県庁所在地、高松の中堅的な
土建屋の「末っ子長男バカ息子」(これ、褒め言葉ですから)
「末っ子長男」君には、10歳離れた姉と9歳離れた姉と兄ヅラ風をふかしまくる姉の旦那、(義兄ですね)がいました。
親は遅くにできた長男にそりゃあ過度の甘さで溺愛しておりましてね、。
それまでは京都の大物意匠作家の事務所で設計士をしていた彼。
親は土建屋を継がせたくて、継がせたくて、毎年のように、
「うちのボンをそろそろ高松に返してください」と京都の事務所の先生のところまで、馳せていました。
何回お見合いさせても断り続けていた「末っ子長男」君は、親からも女に興味がないんじゃないかと疑われていたところ、一目惚れちゃった(らしい)わたくしをゲットしました。
義親との同居
二人目の子供が生まれるまでは、東京と京都に住んでいたのですが、とうとう親も80歳になったし、家をつぐために高松に戻る事を余儀なくされたわけです。
当然の義親との同居。
これについてはお気楽なわたくしは、「住んだ事のない場所に住めるのラッキー」くらいにしか思っておりませんでした。というか、義親にとっては孫くらいの歳のわたくし、。孫がひ孫くらいなもんです。
高松で同居を初めて、「末っ子長男」君は、義父の会社で”係長”とかの肩書きをもらい、彼にとってはつまらない仕事を始めました。
当然、「末っ子長男」君、彼にとっての”つまらない仕事”は、辛抱ができんかったのでしょう。。(だいたいにおいて、過保護の元育った彼は、辛抱という技を身につけた事がない)
1ヶ月も経った頃、、
「ちょっと、三日くらい京都の事務所、手伝ってくるわ」
と言い残して、パンツ3枚だけ持って行ってしまいました。
人質ならず、嫁質、孫質 同居生活が始まりました。
当然かのように、三日どころか、この生活は三年続いたわけです。
同居自体は、お気楽なもので、というか、少し変わった人たちで、
義父は毎朝早くから、街の喫茶に行ってモーニングを食べる。
義母は、テレビ大好きなので、テレビを見ながらご飯を食べる。。
夜は夜とて、義父は、会食ばかりで、9時すぎのご帰宅。。
ばーちゃんの家族はTV。
わたくしも年老いた義母に子供達を見てもらったりしてどちらとも怪我でもしたら大変だと思い、預けたりする事もありませんでしたし、。
(実際、数時間見てもらっただけで怪我したり)、、。
まあ、「亭主元気で留守がいい」みたいな感じで三年間、年子三兄妹とともに義親との同居生活は苦にはなりませんでした。
「末っ子長男」君、帰高松
三年後「末っ子長男」君は、やっと戻ってきて、義父の会社のビルの一室を借りて、設計事務所をスタートします。
その頃には、わたくしも仕事を再開していたので、机を二つ並べて、フリーのデザイナーとの共同事務所みたいなもんです。
どうでも良い話なんだけど、ビルの一階には、怪しい不動産屋がいたりして、初日、わたくしが車を停めたところ、いきなり出てきて、
「おまぇ、どこのもんじゃ〜〜。ここの◯◯組の社長(義父)とは兄弟分の杯ばぁかわしとんじゃ〜。誰が車止めてよかと言ったがぜ〜〜???」
とたんか切られたので、
「あたくし、◯◯組の嫁でございます。
以後よろしゅうお見知り置きを。。」
(と、仁義をきったのは事実です。)
さておいといて、、
数年間、「末っ子長男」君は、義父の建てるマンションの設計くらいで、自ら仕事をとってくるなんてことはありませんでした(さすが「末っ子長男」の王道!)
わたくしはといえば、手袋帽子会社のデザイン企画の相談役やら、高校や専門学校でのデザイン画の講師の仕事で、香川県を東から西へ走り回っておりましたので、子供達の保育園代や生活費らしきものには困ることはありませんでした。
いきなり36億円の負債が降り注ぐ
財布を握っていた義母の他界
子供達が小学生半ばになった頃、事件は勃発しました。
義母が癌のため3ヶ月の闘病生活の末、他界いたしました。
大蔵省の他界。。。
これを火種にとんでもない財政が次々と明らかになりました。
いやね、、あたくしゃ、うすうす、感づいておりましたのよ。ただ、想像の域をはるかに超えていただけで。。。
そりゃ、数年間も義親と暮らしていれば、夜毎、お金について言い合いをしていることも聞こえるし、ばーちゃんがお金を数えるのが趣味で、ため息ついてんのも知ってるし、、
ちょいちょい、「末っ子長男」君にの耳には入れてあげていたのにもかかわらず、うわな空なのは、よっ!さすが!「末っ子長男」!!
次々と出てくる負債の山
義母の葬儀も終わった頃、義父の会社の月末支払い時になり、次々と出てくるわ、出てくるわ。。。。
大蔵省の資金通帳、まさかのゼロ!
どころか、義父が趣味で建てたマンションの数、28棟(だったと思う)
それらの返済がた〜ンまり山積み!
しかもその大半が、高齢のため銀行がお金を貸してくれなくなる時期からは、
「末っ子長男」君の名義で借りているし!
寝耳に水。あたくしが保証人じゃと〜〜?
それどころか、、それどころかですよ!!
保証人が、まさかのわたくし!!!!!!
はあああぁぁぁぁ〜〜〜〜!!?????
なんと、年子の子育てに追われるわたくしになんの同意もなしに、わたくしのハンコ作って、保証人にしていたのです。
「おどりゃぁ〜〜!!警察にぶち込んだるどぉ〜〜!!」
ちょうど料理中だったので、拳に包丁だったんですね、(そら、こわいわな)
数メートル先の義姉の家に義父は一晩にげこみました(のは事実です)
わたくし、危機に面すると妙に冷静になる癖があるものでして。。。
(例えば、怪我をしたり怪我に遭遇したりした時とか、、事件に遭遇したりとか、、)
しゃぁない
解決策じゃ!絶対にある!
弁護士探し
すぐさまに「末っ子長男」君に会社のすべての財務の資料をまとめるように指示出し。
(わたくし、算数に弱いのねん)
その一方でわたくしは弁護士探し。
でも素人が地方都市で弁護士を探すなんて、簡単じゃあない。
今ほど、SNSやインターネットが流行っていた時期ではなかったし。。
とりあえず、市庁で行われている無料弁護士相談に言ってみましたところ、
数件の弁護士さんを紹介してくれました。
弁護士訪問
その分厚い資料を抱えて、弁護士訪問。
今でのその時の光景は目に浮かびます。。。
高松市内どの弁護士も分厚い財務資料を開いて数秒後には、、
見なかったことにします。この案件、どうにもなりません
ドアを開けて数分後には追っ払われました。
どうにもならん、、、それほど、ひどいんだ。。。
こうなったら、東京じゃ!東京!
東京だったら、絶対、敏腕の弁護士いるはず!(東京信奉者)
解決策探しに東京へ
そんなかんなをしているうちに「末っ子長男」君、姫路の知り合いでやはり土建屋のボン(この彼はほんまもんのボンで、姫路ではかなりでかい不動産系の御曹司)から、
なんか、東京にすごい敏腕のコンサル会社があると言う情報を持ってきました。
(のちに知ったのですが、昔NHKのドラマ ハゲタカ の主人公の参考モデルになったという噂のコンサル会社でした)
確か、正月早々1月4日の寒い日でした。
義父と「末っ子長男」君はまるで小旅行を楽しむかのように、早朝の便で東京入りしてぶらぶらするという。
ばかたれがぁ〜〜!あたしゃ忙しいんだよ!仕事もあるし、子供達もいるし!!
ってことで、アポイントメント、ギリギリの遅い便で 東京入りして、〇〇コンサルティングの前で待ち合わせをしたら、この親子、一杯ビール引っ掛けて顔を赤くしての
登場には呆れたのはいうまでもありません。
(言い訳として、ビールでも引っ掛けないと緊張してどうにもならん、と言う。。。)
〇〇コンサルティング、動き出す
〇〇コンサルティングの社長、執行役員、顧問弁護士 対 義父、「末っ子長男」君、
わたくし。
緊張した空気は、社長の一言で、いっぺんに和らぎ、義父がベラベラ話し出す。
(後から聞いたのですが、この社長の一言は隠れた状況を把握するための会話だったとです)
社長:「ところで、おやっさん、昔、相当モテたでしょう?そとに子なんて、いたりしてねえ」
義父:いやぁ〜よくわかりましたねえ〜〜」
ペラペラペラ〜〜と調子に乗って話し出す義父。
これについては、わたくしは同居を始めた頃から感づいていました。
知らないのは当の家族たち、「末っ子長男」君 と義姉二人。
面白いから、数年前にみんなにバラしたけど、、(というのは事実です)
資料を見ている執行役員は眉間にシワを寄せながら、見入っています。
小一時間の対話のあと、執行役員と社長が瞬間のアイコンタクトをとったあと、
社長:「かなり難しい案件ですが、できる限りのことはやってみましょう。数日後には
高松入りしますので、専用の作業場所を用意しておいてください」
うわあ〜なんとかなる!(心の中で小躍り。。)
その日から、解決策を次々とこなしてくれるこの一軍との共同作業が始まりました。
そういや、その時、コンサルティング会社で席に着いたと同時にわたくしが言ったのは、「こんな赤い顔したほうけもんの親子で失礼いたします」って言ったのと、
義父がペラペラ愛人2号さんの話の中で、「まあ、〇〇とも金婚式になりますわ」と言った時に、「おじいさん!おばあさんがなくなってまだ数ヶ月ですのにはしたない。やめてもらえますか?」」と言ったらしいのですが(本人覚えてないが)
コンサルティング集団の方々に今でも笑い話で言われます。
[この嫁。ごいすー。ブリザードふいたぞ]
解決に向けての戦い
いよいよ軍団高松入り
この軍団の勢ぞろいったら、、、
当時、60代初めくらいと40代くらいの油の乗ったおっさん達、、全員175センチ越えで、でかいんですわ。皆さん、黒の長いコートなんか着ちゃって、。
おい、'Gメン75'かよ!(古い)って感じの迫力
こんな感じ↓
バブル崩壊後の金融業界のゴタゴタ、中小企業の再生、不良債権、M&A、粉飾決算、仕手筋との戦い、総会屋とのわたり歩き、、、数々の戦いをこなしてきた軍団が一地方都市にやってきたわけで、、
しかも、初日のアテンドは姫路のボンが送迎用に派手な車(車種は失念)で乗り付けたわけで、、
なんかこわい人達がアーケード歩いてはりますねん。(街の人の声)
用意しておいた義父が趣味でおっ建てたマンションの一部屋(作業場)に着くなり、
パソコン開くなり、どんどんと、スキーム作りを始めます。
わたくしいったら、おっさん達におにぎりを作るしかできないくらいで。。。
お金で育った奴らの化けの皮
人って、こういう時に本性が出るんだなってひしひしと感じましたね。
遺産相続ってのには、負債も相続のうち。
義姉二人は、とにかくばーちゃんのなくなった後の遺産相続の放棄に必死。
「末っ子長男」君に、はよ、同意せよと迫る。
おまけに義父にこんなことになってしまったことに対してグチグチ攻め立てる。
「おい!お前ら、とーちゃんが一代で作った金で、マンションまで買ってもらって、中年になってもこずかいもらってたんだろが!グチグチいう暇があったら、軍団に茶でも出さんかい!」
と、塩まいて、おっかいえしたし。。(のは事実です)
数ヶ月に及ぶスキーム作りと戦い、出てくる出てくるひどい人たち
軍団は、数日、高松に滞在しては、他の仕事のために各方面に戻り、数日後にはまた、
やってきて、スキーム作りと銀行との交渉をします。
調べれば調べるほど、ひどい状況があからさまになります。
当時、義父の秘書を名乗っていた経理のおばちゃん、。
義父が会社を立ち上げた時からの何十年も在席していたこのおばちゃん、
まさかの、2000万円越えの横流し発覚!!
そのお金で、自分の家を建てていたらしい。(立派な罪)
これにいち早く気づいた軍団一人、鬼瓦みたいな顔して
チョー凄みのあるおっさんA氏。
何気にこのおばちゃんに「黙っていてやるから、裏帳簿出さんかい」とかいってるし、、
義姉の旦那、 義兄ときたら、自分が義父に貸した金を銀行とかに返す前に俺に返せ!と連日うるさい(これ、立派な罪、。なんていったかは失念)
企業再生は家族の再生
この軍団の目的は誰かをやり玉にあげることじゃあない。
企業再生をすることによって壊れかけている家族の再生、
一般人には巨額な額の負債をおった中小企業の経営者が自己破産することなく家族が再出発できるようにする。。。
そのために日夜スキーム作りに動き、銀行との交渉をしてくれたのです。
その根本に流れるものを感じられない金の亡者たちは、自己保身のために誰かを責め立てる。。
責めたって、どうにもならないのにね。。。バカね。。
責めてる暇あったら、茶でも入れろや!!
私はといえば、、信用金庫の支店長が家の前に座り込んでるみたいなことが数夜、あったのですが、「知りませ〜ん。義父も「末っ子長男」君も、どっかいっちゃったとです」と、対応していたな。。
義父は家にいたけど、出すと揉め事になる。
「末っ子長男」君ときたら、見つからないようにサングラスなんかかけて変装して出歩いてるし、、
誰ですねん、あんた。。。
敏腕弁護士先生
そうそう、忘れちゃいけないのが、このコンサルティング会社の顧問弁護士先生。
当時40代半ばで、わたくしと同じ年でした。
不良債権、サービーサーとの渡りをバブル崩壊後の苦しむ中小企業の案件の突破口をひらいた弁護士。
追い詰められた中小企業の経営者のために24時間すぐに返信をくれるような無謀な人。
年上の軍団のおっさんたちにも「センセイ」って呼ばれて、絶大な信用をされていました。
鋭い眼光と、やんちゃな笑顔でどんどん案件をこなしていく。。
事務所の一室に天井が抜けるほどの重さのサンドバック吊るして、業務に合間に打ちまくる。。
全身プラダをまとっているのにヨレヨレでプラダに見えない出で立ちで、プラダのボストンバックの中には一週間分の新聞が入っていて、移動の時に読みまくる。。。
負債を抱えた経営者が夜も寝られずに鬱になっていくのを食い止めるために夜中の2時であろうと、朝方の4時であろうと、俊速、返信する。。
チョー酒豪で、酔わない。。
数ヶ月どころか一年以上に及ぶ〇〇組の始末の合間、
わたくしと、「末っ子長男」君を気遣い、たまには、
銀座で派手にぶっ放しましょう!!と、招待してくれて、一晩中銀座の街をアテンドしてくれたり、、しかも全部先生のお支払い。確かこん時、久兵衛にも連れて行ってくれました。
気が晴れたなあ〜〜。
およそ、一年に渡る始末。。
どんなスキームだったかは、15年も前のことなので、もううろ覚えなので、ここでは正確なことが書けないけれど、冷静な軍団のスキームと判断で、危機的な状況が落ち着くのに、一年くらい経っていたと思います。
負債も銀行にとっては商品
金融関係とか、全然わからないわたくしにとっての新しい知識は、
借金も銀行にとっては商品
ってことでした。そら、そうですよね。銀行の商品はお金なんだから、お金の在庫もあれば、不良在庫もある。。
銀行は負債をサービサー、債権回収会社に売っちゃうわけです。
粘り強くことの次第をこなしていった後にやってきたのは、このサービサーです。
わたくしの保証人の負債と、その倍の負債を追っている「末っ子長男」君の負債は
サービサー、債権回収会社の手に渡りました。
高松で住んでいた屋敷も銀行の手に渡り、市内で引越しをしたりしながら、最終的には
東京に戻りました。
やってきました債権回収会社
当時、住んでいた家まで、やってきましたよん。債権回収会社。。
それから、問診表?みたいな、今の生活状況とか、体調の具合とか、書く紙を送ってきていました。(これにはちゃんと弁護士先生のいう通りに書きました)
1~2年だったと思います。なんとかやり過ごした後、、、
債権回収会社から、
「どないですねん、ここらで、一発、この金額で、手ぇ打ちませんかい?」
みたいな申し出がきたわけです。
すぐさまコンサルの社長に連絡
「おっ!やっとこの時期がきたか。長かったけどよく我慢して待ちましたね。
この債権回収会社なら昔の銀行仲間の知り合いだ。一人では難しいから、うちの事務
所でカタつけましょう。。」
余談ですが
お世話になり続けているコンサルの社長、めっちゃコスプレで、毎日キメてますねん。
時には昔の海軍のスタイルをまとっていたり、時には、シルクハットでキメていたり、、
で、京橋の事務所にて、債権回収会社との交渉。。
社長と債権回収会社の担当者が世間話をした後、、
社長:「どうです?120万でオチつけません? ン億の負債、一円も回収できないでいるより、この負債商品、割とよい値段でっしゃろ。」
債権回収会社:「ま、そうですね。社長がおっしゃるなら。。。」
社長:「でもこの方、子供さんもいるし、大変なんですよ。。もう一声、下がりませんかね。。」
っていう、やりとりの末、、
なんと!100万(だったか、70万だったかに記憶が定かではないが、そのくらい)
交渉が成立
恐るべき仕組みの世の中。。。
というわけで、36億もの負債も、銀行にしてみれば回収不能な赤字が続くよりも
一円にでもなった方がマシ、らしい世の中の仕組みを知りました。
返済金?仕事が趣味なので、この時期がくるまで、ちゃんと仕事収入キープしておりましたし。。
まとめ
その後の企業再生は家族再生
わたくしの債権回収会社との交渉が無事澄んだときにはガッツポーズな気分でした。
わたくしの倍の負債の持ち主「末っ子長男」君?
風の噂によると彼は、債権回収会社との交渉に未だに応じていないようです。
家族再生。。。わたくしと子供たちは、立派に今を生きております。
「末っ子長男」君については、「末っ子長男の王道」を親が亡き後も続けていたので、
コンサル会社の社長もお手上げ、放り出し、。
ある夜、家族会議をして小学高学年と上は中学生になっていた子供達に意見を聞いた後、サクッと翌朝、「末っ子長男」君の世帯から離脱するするために役所行きまして
無事、離脱成功。
養育費、慰謝料に関しましては、無いと言い張るので、無い奴に迫っても感情と時間の無駄。サクッと出て行ってもらいました。
(成人したこどもたちは、本当にママっておばかね。慰謝料はとるもんだよ。と言ったりします。あっ、もちろん、子供達は自由に父親とあっておりますが)
コンサルティング会社との関係
散々お世話になったコンサルティングの会社の軍団の方々、、(わたくしはおにぎり差し入れたり、ご飯を作ったりくらいしかしてないけど)
その後も何かにつけては、相談に行ったり、もちろん、「末っ子長男」君の世帯から離脱する際にも紙切れにハンコ押してもらったり、わたくしが何かを始めるときには、色々とアドバイスをくれたり、海外に出るときにはVISAのために推薦状を書いてくれたり、、、
まあ、ときには、わたくしが相談に乗ったり、、、
鬼瓦みたいなおっさんちの田舎に連れて行ってもらったり、
人んちに酔っ払ってベルトを忘れていくラインでいつも見守ってくれるおっさん、
カラオケ大好きで必ず酔ってはカラオケ行っちゃう不動産関係のエキスパートのおっさん、
知らないうちにうちの子供達に「京橋のパパのところに顔を出しなさい」とかメールしちゃうコスプレオサレな社長(長いときを経て、今は会長)。。。
もはや互助会のような兄貴たちの存在です。
コンサル会社の軍団と家族になったわけです。
運がよかったのだと思います。綱渡りのような時期はたくさんありました。
人との巡り合わせって重要。。。
人と縁と運を大切にしていければきっと行きていけるさ。
って思いながら、メキシコで長々とこれを書き上げてしあわせでございます。。
そのうち、コンサル会社の方々に許可をもらって、ご相談はこちらへ。。。みたいなページを作ろうかな。って思います。
(15年も経っているので記憶をたどるのに必死でしたけど大方事実に基づけていると思います)