これは50歳をすぎて海外就職した割に認知症の父を海外に呼び寄せちゃった記録です。
何かの参考になれば、幸いです。
父の認知症についての記憶の記録
認知症って家族が気づいた時が発覚日?
ある日、父が認知症になりまして。。。
いえいえ、違います。。。
ある日、父が認知症じゃねっ?てのを家族が認識した日が訪れまして。。。
出だしからなんなんですが、これ、割と重要な気がするのです。
なぜなら、とうの本人は普通なわけで、周りがそれに気づき、認識した時に
初めて、その病名は活用化されるのではないかと、思ったりして。。。
父の認知症に気付くまで
キャラの特異性がゆえ
今思えば、
2014年以前より少し前より、東京のわたくしのところに遊びにきていた時から、
その兆候はあったのかもね。。。
銭湯好きなので、小伝馬町の銭湯に連れて行った時のこと、、服を裏返しのまま、下着と洋服とをごちゃまぜに着て戻ってきました。
これ、もし、普通に考えたら、あれ??って思うんでしょうが、うちの父、若い時分から、そういうとこ、あるのです。
父は北海道でも割とデカめな化学飼料会社に工場長として定年まで勤め上げた人です。
父の在籍した、化学飼料会社というのは、当時北海道において、お魚や甲殻類の残菜を飼料にしたり、それらの素材をもちいて、液晶化の研究(例えばイカのゴロ、肝臓からコレステロール抽出して液晶化をする研究)して、装飾品や体温計などの商品化に向けて日夜研究する会社でした。
現場で工場長として働く父は、扱うものがくさいので、会社にあるお風呂で必ず、
ひとっ風呂浴びてから、帰宅についておりました。
幼心に記憶があるのは、、
父のおパンツが裏返しなら、お風呂で脱いで[裏返しになる]
履いて[裏返しのまま] 帰宅、おし!正常!
(要するに裏返しのまま履いて帰ってくる)
もし、裏返しじゃなかったら、、、脱いで(裏返しになる)、履いて(裏返しのまま)、
そして、また脱いで(表になる)、また履く(表の状態で履く)。。この時点ですでにややこしい。
おパンツ、これは、事件じゃ!寄り道してるぞ!
表履きで帰ってきたら、母に怪しまれる父、、かなり笑える。。
ってな父なので、銭湯で、ヒッチャカメッチャカな、いで立ちを装い帰ってきても
ノーマルなんじゃん?くらいにしか思っていなかったのは、わたくしです。
(母は、見た目、迷惑だし、いい加減にして欲しいと怒る。)
もともと、飛行機に乗ったりしても耳が痛いなどと、幼児のようなことをいう傾向のある父、、で、耳の穴に指突っ込んだり、つばつけてみたり。。が頻繁になり。。。
(今思うと、多分、自分の中で何かわからない要素の声が聞こえて、もしくは、聞こえなくなり、記憶が混乱をし始めた時期で自分では耳のせいだと思い、そんなことしていたんだと思うな)
母はかなりきれい好きで、凡帳面で四角四面なタイプ。
街中で立ちおションベンしたり、耳が痛いと言って、レストランのお手洗いで頭ごと洗い出す父に、格好悪いからやめて欲しいと、制するタイプ。。。
かたや、長女のわたくし、そんなの、誰にも迷惑かけるわけじゃあないから、いいんじゃん?って思う、いい加減者。
父のもともと持っているキャラが認知症ってのを家族が認めるまでの時間稼ぎになっちゃんたんだな。。。
認知症で渡越
ベトナムで仕事していたわたくしは、まあ、親孝行の意味も含めて、二度ほど、両親をハノイに呼び寄せるようなこともしてみました。(母が旅行好きなので)
何歳になったって海外旅行って楽しいよね?みたいな感じでご招待。
一度め2016年11月に初めてハノイにきた時には、すでにお医者さんから認知症だと言われていたのですが、母の気晴らしの意味も含め、渡越してきました。
ただ、全く食事を食べたくない症だったようで体重が38キロくらいまで落ちていて、
かなり痩せこけていました。
いやしんぼの父がとにかく食べたくない、の一点張りで、
薬も飲まない、と母がぼやいていたのですが、なぜか、わたくしのいうことは聞くので
ハノイにいる間じゅうは薬も飲んでくれていました。
今思えば、この食べたくない症のおかげで、帰国してから発覚した病気、(大腿部の骨が
十数年前の胃癌の転移再発でえぐられていたのですが、自ら癌に栄養をあげないということを野生の勘で実践していたのでしょうか。。。
脳みそは、わりかし通常運転しておりました。
ハノイのオートバイの渋滞を見て、「日本ですたれているオートバイ産業がこのように
アジアで活気をもたらしているとは、日本が見逃しているなどとは、もったいない。。」などと、経済的持論すら、ぶっ放していたしね、とうちゃん。。
このすごいオートバイ世界を目のあたりにして、なぜか、遠い記憶にとうちゃんが原チャリバイクに乗って、通勤していた時に、当時中学生の遅刻寸前のわたくしが、無理やり、原チャリ二ケツで学校まで乗せろとごねたこととかが、父の脳みその蘇ったらしく、そんな話をしたり。。。
足が痛い痛いと言いながらも杖をつきながら自分の足で歩いていましたし。。
(そりゃそうだ。大腿部の骨にすでに穴があいていたんだから、、、母は痛い、痛いって言ってるけど、歩くのが嫌なだけよ。少し歩く訓練した方がいいのよ、なんて言っていましたが、、、)
あまりにも足が痛いというので車椅子を借りて、食事に言ったりとかしてました。
わたくしが働いているホテルのオーナーとGMに紹介した時も、しっかりと帽子を脱ぎ
ご挨拶なんぞもしておりましたし、ね。。
長女は特別なのか?
とにかくわたくしのいうことは聞くのです。
母がさじを投げても、ほれ、貸してみ、。みたいな感じで、薬とか渡したり、バナナを口に突っ込んでも、苦笑いしながら、食べてみたり、、(食べたくない症候群なのに)
まあ、誰でもいうよね、いうこと聞いてくれるんなら、さ。。
でもね、家族の中でも、やはり、、、
嫌なんでしょうねえ。。。
毎日介護をしている母は、私のことを「よそのおばさん」っていう、とか、
10歳離れた妹は、「私の名前は覚えてなくて、私の顔見てもネーチャンの名前をいう」
と、こぼしていましたねえ。。。。
もちろん、父の中で、わたくしは「永遠のアイドル」、であり、「自慢の長女」
なのかもしれません。。
でもね、自立心が強かったわたくしは、反抗も強かったので、幼少時におイタがすぎて
裸ん坊で雪の中に放り込まれたり、石炭小屋に(日本最果ての地だったんで、当時は石炭ストーブでした)閉じ込められたりしたもんです。
父に頰を叩かれても、「あたしゃ悪くない!」みたいな感じで、
「ほれ、もっと叩け!」みたいな反抗をして、父が根負けした時期もありました。
思い出せない父に難儀な質問したくない
でもね、、お母ちゃん、妹ちゃん、、、
ちょっと姉ちゃんは、スタンス違っていたんだな。
「私、誰?名前言ってよ。」とか、「お父さん、自分の名前言ってみてよ」
とかいう母と妹、、。
わたくしにも、「姉ちゃん、お父さんに自分の名前聞いてみてよ、お医者さんにも言われているからさ」という母や妹に、
わたくし:「そんな意地悪な質問できないよ〜、だって、すぐに思い出せなくて、困ってイライラしてんのはおとさんでしょ〜が、、」
だから、わたくしは、いつもどうりの通常運転の会話。。。
父:もしも〜し!?おとさんだぁ!?ykkyかぁ?
わたくし:んだ、ykkyだぁさ!
これ、わたくしがン十年前に大学のためにtokyoに言った時からの電話の会話の枕詞?
みたいなもんだったんです。
それをね、
わたくし:もしも〜し!?ykkyだぁ!?おとさんかぁ?
に置き換えたら、
父:んだ、おとさんだぁさ!
って、感じに埋め込み、進化してくれたんだよね。。。。
とにかく、何かがもやもやして、思い出せない人に難儀な質問(簡単な質問でも)
そんな野暮なことしたくなかったんだな、、わたくし、、
それよか、答え、を繰り返し言った方が、安心すると思うんだよね。。
多分、遠く電話の向こうから、聞こえてくる娘の声、、でも、名前、はてな???
誰だっけ、誰だっけ、、、?って思っている間に、だんだん、自分のイライラが募り、
荒れた行動に出て、ものを投げたり、暴言吐いたりする。。。
うん、わかるよ、認知症という病気じゃなくても、なんか思い出せなくて、喉のここまできてるけど、いや、出てこない。。。みたいな時って、ちょーイライラするじゃん。
それが、毎日、毎時、毎分、毎秒、、、それが、今の父に起こっていいるんだと思うんだ。。。
そりゃ、ものも投げたくなるし、暴言も言いたくなるわな。。。
わかるけど、、、
でも、毎日、父の介護で明け暮れしている母にはきついよね。。。
それも、わかる。。
まあ、所詮、わたくしは、勝手気ままに海外で仕事して、生活しているお気楽長女ですもんね。。。
で、お気楽長女、両親が初めてのハノイでの一週間の滞在を終えたあと、決めました。
日本時間の2~4時の間に、毎日、Lineビデオ電話して、遠隔介護しよって。。。
って、わけで、デイケアから帰ってきた父と、毎日、Lineビデオして、その間に、
母は夕食のしたくなんかをする、、っていう、数ヶ月を過ごしたわけです。。
長くなりそうだから、パート2.に続く。。。
50歳をすぎて、海外就職 ノマドシェフになりながら、
父の認知症に直面しちゃった記録、、、
何かの参考になれば、幸いです。
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